剣士と守護の楯
第七話「信結」
扉が開かれた先、緑色の髪を靡かせて現れた生徒は恭也に見覚えがあった。
(確かあの生徒は……)
恭也が名前を思い出そうとする前に近くにいる雪乃を支えるようにしていた妙子からその生徒の名前が発せられる。
「……有里か。」
そう。
穂村有里。
リスティから別れの際にリスティを頼れない時やより詳しい情報、学院内の情報が欲しい時はこの名前を出された。
一応、自室には生徒名簿とは別にリスティから何人か進入しているガードや雪乃達を始めとする学院内の要護衛人物などが載っている名簿がある。もちろんその中に穂村有里の名前もあった。そして、リスティからは情報を得る時、リスティを頼れない時や学院内のことをよく知りたい時は目の前にいる穂村有里を頼れとも言っていた。だから恭也は有里のことは護衛対象者である雪乃達と同様のレベルで知っている。
それでも恭也は警戒を緩めない。恭也自身、まだ有里だという明確な確信がないからだ。お互いにこれが初見なはず。最悪、有里の変装した襲撃者とも考えられる。
恭也の今いる位置から雪乃の前で襲撃されたら神速を使っても間に合いはしない。だが、今は妙子が雪乃の傍にいる。修史は今、山田妙子としてセント・テレジアに潜入任務として学生ではいるが、本来はアイギスのシールドナンバーを与えられている実力者である。もし、この場にいる有里がなにかするとしたら妙子が文字通りにアイギス《絶対防御》の名にかけて身を挺して護るだろう。
恭也はセシリアの時に修史と鉢合わせている。あの時の銃撃された瞬間の反応速度から考えれば修史は十分信用足る動きだと恭也は考える。
ならば、恭也は最低限の警戒を有里に向けて周囲をも警戒する。そして、視線と手に持つ写真の意図について考えを巡らせる。
(ふむ……この写真以外には特に何があるという訳ではなさそうだな。やはり春日崎雪乃に恐怖感を抱かせるのが目的といったところか。他に考えられるとしたら襲撃者が脅迫状に書いてあるようにゲームの一環として愉しんでいるというところだが、どちらかというと前者の方が確率は高そうだな)
恭也は思考の海に漂うのを止め、有里へと視線を移す。
(行動と言動を見る限りでは本物の穂村有里と見ていいか。まだ警戒は必要だが、修史の様子から必要以上に警戒はいらないだろう。……なら、俺も行動を移すか)
恭也が思考の海で結論すると未だ雪乃を落ち着かせている二人へと近付く。妙子が気付くと隣にいた有里も気付く。雪乃はまださっきのショックもあってまだ立ち直れてはいないようだ。
そんな中、有里は雪乃の仇を見るように恭也を睨みつける。しかし、恭也はそれを無視して妙子へと話し掛ける。
「山田さん、春日崎さんのことお願いしていいですか?」
「えっ……あ、はい。」
「おそらく今回はこれで終わりでしょうから春日崎さんが落ち着くまでは傍にいてあげて下さい。」
「えっと、私は構いませんが、きょ……不破先生はどうするんですか?」
「そうですね……。私は念のために寮内と周辺を見回ろうかと思います。有里さんでしたか?寮内見回るのに一緒に来てもらっていいですか?」
いきなりの誘いに有里は警戒をして先程より嫌悪の表情を浮かべ、視線をさらに強める。とはいえ、有里が恭也を警戒するのは当然のことである。
由緒正しきセント・テレジア学院にいきなり現れた有里の情報で得ることができなかった男性教諭、不破恭也。
その相手といきなり二人で歩きましょうと誘われているのだ。疑うなと言うのが無理である。だから、有里は妙子を見る。まだ妙子の方が有里の中では信頼性があるからだ。
疑いの目を妙子に向けた有里の視線はやはりというべきかどこか恐れがあるように見える。だからこそ妙子は安心させるように微笑みながら伝える。
「大丈夫だ、有里。心配ないから行ってきて。」
妙子の言葉を聴いて、有里は少しばかりの警戒を緩め、「はい。」と頷いた。
◇◇◇
妙子に雪乃を任せて恭也と有里は二人で学園の中を歩いていた。このときの二人は一言も話さなくて、周囲を警戒しながら歩いていた。
このとき、恭也は有里にどう話を切り出すか迷っていた。ただ協力を申し出るだけでは承諾してもらえるとは思ってもいない。なにかしらの見返りが必要か?それとも有里が持つ情報に見合うなにかを差し出す必要なのか?それはいまだ恭也の頭には浮かんでこない。
同じく有里も悩んでいた。なぜ、恭也が自分を誘ったのかわからないからだ。考えられるもので最悪なのは恭也が有里と敵対関係で尚且つ有里の正体がバレていること。でも、有里の中でそれはないだろうと確信に似た近い思惑で否定している。
判断として挙げられるのは山田妙子として潜入しているアイギスのエージェント、如月修史の存在。その修史が不破恭也という一人の教師を信頼している。まだそんな実績もないエージェントだが、あのアイギスでシールドナンバーを持つあの如月修史がだ。それだけで有里にとって十分な判断となる。というより、妙子はあまり嘘がつけない。嘘をついてもなにかしら表面上に出てしまうため、熟練した者ならば気付いてしまう。
有里は情報を扱うため、誰よりも信頼における者というのは非常に重要な要素である。なによりも真偽を知るためには相手の表情の微々たるものでも読み取る必要がある。
その辺り、修史は表情に出やすい。一応は一般人と比べると出ていないのだが、裏の世界になるとほんの少しでも出てしまうと下手すると死に繋がる。特に有利は護身術程度の技術や簡単な射撃などを行なっているが、殺しを専門に行なう者や武を猛る者にかかればそんなものなど意味がなさないことを有里自身がなによりも知っているからだ。だからこそ有里は戦うことはせず、情報を扱うことに長けるようにしなければこの世界では穂村有里という個の存在は生きられない。
二人が雪乃の部屋を出て、寮内を回って最後に行き着いたのが普段に皆が食堂として使うラウンジだった。そこで初めて有里は口を開いた。
「あの……」
「少しばかり休憩しようか?おそらく色々と聞きたいこともあるだろうから。」
有里は肩透かしをくらったような感じがしたが、恭也から話してくれると言うのだから有里からすれば願ったり叶ったりだ。修史が恭也を信頼しているのだから、万が一、もし雪乃達になにかあったのだとしたらすぐに対応はできるだろうし、仮定として恭也が襲撃者だというのなら情報を主に扱うだけである有里を現時点で襲撃する意味はあまりない。
だからだろう。有里は恭也が敵であれ、味方であれ恭也の話に耳を傾けようとしたのは。
そう思うと有里は不思議と恭也に対して警戒を解き、後ろについていく。
そうして恭也は食堂の中でも比較的安心できるような位置を確認し、椅子なども確認してから座る。それに倣うように有里も同じようにしてから座る。座ったのを確認してから恭也は話を始めた。
「さて……どこから話したらいいのか……」
「不破先生の話せる範囲で構いません。それと最初に確認しときたいのですが、あなたは私の……妙子の、いいえ。如月修史の味方ですか?敵ですか?」
恭也がどう切り出すべきかを悩んでいたところで、有里は隠さずにど真ん中のストレートを投げ込んできた。しかも、最初の確認が味方か敵かの二択。それも自分ではなく修史に対してのだ。思わず恭也は吹き出してしまった。
「なんですか?そんなに今の質問がおかしかったですか?それとも今の質問の内容がわからないと言う訳ではないですよね?」
「いや、あまりに真っ直ぐに言われたので。つい、な。ただ、その質問の内容はほぼ自分の中で完結しているのではないか?私がもし、敵であるのならば君はどうしていたんだ?もしかしたら殺される可能性はこうして面と向かっていることを考えるとかなりの確率で君はなんらかの傷、もしくは死ぬだろうと最悪な結果を考えなかったのですか?」
恭也の言い分にしばしの間、有里は考える。しかし、結論に至るにさほど時間はかからなかった。
「ええ、考えました。けれども、不破先生が敵もしくは準ずる者だとしての可能性は限りなく低いだろうと私の中では結論に至りました。」
「……なぜ、と聞いてもよろしいでしょうか?まだ私と穂村さんは今回のことがなければいまだ面識はないはずですよね。どうしてそう簡単に結論に至ることが出来るのでしょうか?」
「そうですね……まず、私とは不破先生が言われたように面識はありません。が、面識はないだけでお互いに一度視線が合っています。とは言ってもこれは私の想像でしかありませんし、勘違いかもしれません。なら、なぜ信用するのか?それは私が妙子を、如月修史を信頼しているからです。修史がアイギスのシールドメンバーの一人であり、女装してまで転入してきたことも私独自の情報で掴んでおり、既に雪乃様の悲鳴があがる前に挨拶をすましています。その如月修史が不破先生、あなたを信頼している。なら、私が貴方とこうして話し合いの場を設けないと私と不破先生の間で信頼を結ぶことができません。……残念ながら少しばかり調べましたが、不破恭也という人の存在、情報はほぼ皆無。むしろ本当に貴方と言う個が存在しているのかさえも怪しいぐらいです。ただ一つあったのは『黒翼の雷』『黒刃』『絶なる双刃』と言われる人物に関する噂ぐらいです。」
そう、本来ならば二人はいまだ出会わずのはずだ。恭也は確かに一度だけ修史を昼休みに撫子会に連れていくということで星野麗美先生とともに教室へと顔を出している。その際にも教室内の間取り等とそこにいた生徒の顔や立ち振る舞いなどを一瞬だが、簡単に見ている。そのとき、ある二人の少女と視線が絡んだ。
その一人というのが穂村有里。恭也自身も気付かれたかと思ったが、特に意識はしなかった。恭也自身、有里の顔は知っていたのでこの視線を一度合わして話し合いの場をもつように有里から近づくように仕向けた。
もう一人に関しては見た目だけはお嬢様っぽい感じがしていたが、どこか違和感を感じた。しかし、何故そう感じたのかは全くわからなかった。そのときはすぐに移動する必要があったのでとりあえず一度意識の外に放っておいた。
「それだけでは弱いのではありませんか?確かにこのセント・テレジアに通う山田妙子という人間は戸籍上存在しません。それに変装している如月修史という人間にも間違いはありませんが、もしもの可能性として私かその如月修史が偽者だったりしたらあなたは信用できますか?他にも私と如月修史が組んであなたと敵対することの可能性もなくはないでしょう。他にもあなたの専門はどちらかというとサポート、それも情報を扱うことの方が長けているでしょう。それならば、協力関係を結ぶのは出処が分からない私よりも如月さんだけの方が機密上は安全だったのではありませんか?」
恭也の言うことはもっともである。有里が掴んだ情報ではっきりしているのは山田妙子という人物が戸籍上のみの人物であり、如月修史という人物が変装して潜入しているアイギスの人間であること。その修史とは簡単にだが、面識していること。それぐらいである。
不破恭也という人物に関してははっきりとはわかってはいない。通り名というが、それが恭也である証拠はないのだ。それに修史とも確立した信頼が結んでいる訳ではない。もし、どこかで修史や恭也が敵と入れ替わっていることも可能性としてはなくはない。また恭也が言うように有里と敵対関係になることもあるかもしれない。それに機密上ばらすのはできる限り人数は少ないほうがいい。
情報というのはどこから漏れるのかわからないのだから。
有里はそのことも想定したように口を開く。
「確かに修史とは数分話しただけです。しかし、修史が今までにこなした仕事を拝見させていただきましたが、男子学生などに変装はしていたことがあってもそれは護衛のとき、それも不特定多数の場所。例を挙げれば、つい最近護衛したセシリア・ローズのような形のみ。ましてや、今回のように女装。それもアイギスからは一人で、初の単独潜入。今はまだ初日でもありますので、気が張っているのもあるでしょう。しかし、私のように正体を知るような者にとってはどこかしらの無理をしているのがいずれわかります。ご存知だとは思いますが、私の他にも何人ものガードが学院内にいます。それが生徒だったり、先生、警備の者など様々です。もし、その者達に修史の存在が露見したことを考えると護衛につくことになる雪乃様や蓮さんに行動が支障、もしくは予想外の行動を取られる可能性にもなります。だからこそ今のうちに唯一、山田妙子という人間が如月修史の変装だということを理解している不破先生と一刻も早い話し合いの末に最低限の信頼を結ぶ必要があったのです。」
恭也は有里の言うことに内心ではあるが感嘆の声をあげそうになる。リスティから穂村有里という女性はある探偵会社でもある程度の実績としては上であり、情報を扱うことに関してだけを考えれば日本の中では個人レベルで五指に数えられる。
いくらアイギスがある程度の情報を公開しているからといっても特殊要人護衛課に関しての情報は少ない。そのことを考えても有里が優れたガードだということが読み取れる。
それを踏まえて、有里は修史が妙子に変装しているときになにかあったときお互いに連携して欲しいと言っている。他にも修史を通さないで直接連絡を取れる方法の確立といったところだろうか。
「素晴らしい。穂村有里、君の洞察力と観察力、そしてその噂に違わないであろう情報収集。さすがに『ホーリー7』のコードネームは伊達ではないのですね。」
滅多に相手を褒めない恭也だが、数少ない情報の中での有里のほぼ的確な状況判断に関しては素直に褒めざるを得ない。あまり表情を崩さずに小さいながらも拍手を有里へと送る。
恭也の様子に有里は少し呆けるもすぐに照れくさそうに頬を赤くし、顔を背けるその姿がとてもガードとは思えず可愛らしくどこにでもいる高校生と変わらないように恭也には見えた。恭也はそんな有里が可愛く思え、微笑を浮かべる。
目の前に座っている恭也の微笑に気付いた有里が必死に照れを隠そうと話題を変える。
「そ、それでですね、もう一つ気になったんですけども、どうして不破先生はこうして私の話を聞いてくれるのですか?修史と一緒の時期に来たことと先程の雪乃様の件であの場にいたことを考えればなんとなくガードなのだろうということは予測はしているのですが?」
有里にとってはもっともな疑問なのだろう。有里から見れば不破恭也という人間はとてもではないが、情報能力に長けているとはとてもでは思えない。ただ、有里を基準と考えるのならば基準が高くなってしまうのだが。
「そうですね。私が穂村さん、あなたとこうして話を設けたのにはいくつか理由があります。一つはあなたと連絡を取り合う必要があったこと。二つ目は今後、あなたとの情報交換及び最低限の信頼関係を確立すること。三つ目は私自身、男性としてここに来ている私や女装している如月さんでは学院内で対処ができないこともあるので、そのときにはお願いしたい。四つ目は如月さんを上手くバックアップしてほしいのです。最後のは頼める義理ではないのだが、関係上私より同じ生徒という立場である穂村さんの方がフォローをしやすいでしょうから。」
そういって頭を下げる恭也に有里は思わずうろたえてしまい、両手をこれ以上ないくらいにブンブンと音が鳴るくらいに振ってわたわたするその姿が同年代とは思えないくらいに恭也には可愛らしく思えた。
「あ、あの頭を上げてください。わ、わたし、目上の人にそうやって頭を下げてお願いされるのって駄目なんです。」
さらに捲くし立てる有里の姿にどうしようもなく女性として好感を抱いてしまった。護衛の任務中だからこそ、異性として意識してしまうのはまずい。恭也は話題を逸らすために顔を上げて話を進める。
「それとですね、私はあなたのことはここに来る以前から知っていたんです。私が信頼しているある人から『穂村有里を頼れ』と言われまして、その人は連絡がつかなかったら穂村さんを頼れと言いましたが、早いうちに関係を築くことも悪いことではないと思いました。今回のことでちょうどこうして顔を合わしたのもありましたので話す場を設けさせていただきました。」
有里は恭也の言葉に少し顔を強張らせる。
実は『穂村有里』という人物ははっきりと言って知られているわけではない。情報を扱うものとしてのコードネームは知られているが、その本名を知られているはずはないのだ。
それが知られているということは不破恭也のバックには相当な情報を扱う者がいるということ。それなのにその者は『穂村有里を頼れ』という。
有里からすれば不可解なことだった。有里の推測だが、不破恭也という人物には専属の情報に長けた者いる、と。なのに、その人ではなくて目の前にいるほぼ初対面である人物を頼るという。
情報を扱う者にとって恭也の言葉は最上級の褒め言葉である。情報というのは大事なものだ。特に護衛を行う際には常に受身であり、後手に回ざるを得ない。護衛を行うときに襲撃者の撃退や殲滅もあるが、最重要目的は護衛対象者を無事に守り通すことだ。よって、護衛対象者から離れるときはほぼ有り得ない。しかし、今回は潜入任務。それも秘匿の護衛である。その場合、対象者から離れることも有り得る。常に傍にいてはあきらかに護衛していますと敵に言っているようなものだ。
常時、傍にいるわけではないのでどんな些細な情報でも見落とすことはできない。しかしながら人の思考できる許容量というのはある程度決まっている。視覚に死角というものが存在すると同様に思考の死角というものが存在する。
護衛の最中は一点に集中することなどない。360度全ての方向を警戒して対処できるように待ち構える。しかしながら、全ての方向に警戒しても咄嗟に反応できないことが出てくる。
それが『思考の死角』。
自分の想定外のことをされると体が反応できない。人間は脳が認知していないことにはすぐに反応して対応できないのだ。
だからこそ情報は多く取り、そこから最低必要限の情報を抜粋する。そのためには優秀な情報というのが必要不可欠だ。それには信頼の置ける人間からの情報でないと死に繋がることも有り得るのだから。だからこそ有里は解せない。いや、許せない。情報を扱う者として第一線で戦う有里だからこそ認める訳にはいかない。
「……どうして、どうしてその人は自分以外の情報提供者を簡単に頼れというのですか。もし、私が敵や不破先生を貶めるかもしれない可能性もない訳ではないでしょう。それなのにどうして簡単に会話もしたことない私を信じようとするのです?私が裏切る可能性もあるのですよ。」
有里の叫びとも取れる声は冷静でいて、穏やかに見えて、怒気が溢れているのが恭也からもはっきりと見える。それに対し、恭也はただ淡々と見つめ返す。
有里は見つめられ、どうしてか目から雫が零れ落ちる。それを涙と認めずに淑女らしくない振る舞いで制服の袖口で擦りあげて拭く。
その行為は恭也をさらに引き寄せ、信用に足ると思えた。知り合って間もない有里が涙まで流して他人である恭也を心配してくれるのだ。恭也にとってそれだけでもう充分だった。目の前にいる穂村有里という少女はリスティと同格。ならば、全面的に恭也はこの子を信じようと決めた。
「……その言葉と今、有里さんが流している涙だけで充分信用足ると私は思っています。それに私は『頼れ』としか言われておりません。私が穂村有里という人物を見て話し、全てを私自ら決めて、不破恭也が信頼したのです。それ以上の理由が必要ですか?」
有里はその言葉を聴き、顔を真っ赤にさせた後に俯き、黙って首を横に振った。そのときに有里の目から一滴、流れ落ちたことに恭也は気付かないふりをし、時間を過ぎるのを待った。
ふと、恭也は上を見上げると天窓から見える月が優しくほのかに輝いたような気がした。
☆☆☆
有里と恭也の話が一段落したところで恭也が立ち上がった。それを見て有里も立ちあがろうとするも先に恭也が手で待つように制す。そして、どこか子供がなにか楽しいことを思いついたような無邪気な様子を恭也は浮かべていた。
恭也は有里を制した後、調理場へと移動した。やはりこうして言葉を交わしたのだが、あまり硬さはとれていなくぎこちなさは自覚している。そこで少しでも雰囲気を緩和しようかと考えたのが実家である家業の喫茶店で培われた紅茶を振舞うこと。幸いにもここは名高いセント・テレジア学院であり、物自体がほとんどのものが高級である。その中には恭也の目当てのものがあった。
「……さすがと言うべきか。かなりの種類があるな。」
恭也が呟きながら戸棚の中からある銘柄を取り出す。それは『SFTGFOP(スペシャル・ファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコー)』。
世界の三大紅茶の一つであり、セイロンのウパや中国のキーマンと並ぶインドのダージリンの中でも選りすぐられた最上級茶葉の一つである。マスカテルフレーバー(マスカットフレーバー)と呼ばれる特徴的な強い甘い香りがあり、この香りの良し悪しが茶葉の価値を決めているといっても過言ではない。また、比較的強い渋みを持っていることも特徴に挙げられるが、この渋みは決してマイナスではなく、深みのある味を与える好ましいものである。ただし、好みは分かれるのだが。
恭也は手に取り、封を開放する。開けた瞬間に特有の芳醇な香りが発せられ、なんとも心地よい気分にさせる。マスカテルフレーバー自体がダージリンの生産量全体に比べて極めて少なく、それも一部のさらに選りすぐられたダージリン紅茶にしか付加されないために希少価値は高い。
「この香りは……すごいな、これほどとは。」
母である桃子が営む稼業の『喫茶・翠屋』でも様々な紅茶の茶葉を取り揃えているが、恭也が目にしている茶葉の量、種類ともに遥かに多い。恭也から見ても圧巻の一言である。その中でも手に取ったのも翠屋でも滅多に置くことはなく、特別なときにしか出されないものだ。市場の状況次第では提供できないこともあり、恭也でさえこの茶葉を淹れたことはない。
紅茶の収穫時期は七つに分かれる。順番に早積み茶、ファーストフラッシュ、インビトウィーン、セカンドフラッシュ、オータムナル、ベスト・シーズン、クオリティ・シーズン。その中でも高品質だと言われているのがセカンドフラッシュでファーストフラッシュに比べると香りは劣るが、味はこちらの方が格段にいい。オータムナルでは味、香りが劣るのだが、セカンドフラッシュに比べて比較的濃厚で丸みを帯びた味が特徴でミルクティーにも合うとされる。
『SFTGFOP』もそんなセカンドフラッシュの一つで手にしたものもマスカテルフレーバーが付加されているのがわかる。それもこの銘柄や収穫時期を考えれば高品質、高値なのは間違いないだろう。
「さて、淹れ方はやはり煮出し式にするか……ここにはサモワールらしきものはないか、仕方ない、鍋で代用するか。」
そういうと恭也は厨房の引き出しより小型の鍋を取り出して水を張る。そして、鍋を火にかけて湯を沸かすのを待つ。
紅茶には淹れ方には大きく分けて、淹茶式、煮出し式、煮込み式、濾過式の四つが知られている。日本で多く飲まれている方法として挙げられるのは淹茶式と煮出し式の二つだ。
淹茶式はポットなどの容器に茶葉を要れ、熱湯を注いで蒸らし、茶葉を濾別して抽出する方法で家庭でも一般的に使われている方法である。ティー・バックを用いた場合もこの方法に分類される。
煮出し式は鍋や釜に湯を沸かし、茶葉を入れてそのまま煮出した後、茶葉を濾別する方法。煮出す時間茶葉によって多少の前後はするが普通は30秒程度。煮出している最中は蓋をすることで鍋一つでもできるために比較的簡便な方法であるが、一度に多量に抽出できる上、抽出時に変化が与え易く、応用の利く方法である。
次に煮込み式だが、煮出し式に似ているが水の代わりにミルクを用い、抽出に比較的長い時間をかけるもの。インド・チャイがこれに当るがハッキリとした定型がなく、煮出し式との区別はむずかしい。多くの場合、多量の砂糖とスパイスが入る。またミルクを使った煮出し式と比較すると煮出し式は茶葉の香りを飛ばさぬようミルクが完全に沸騰する前に(俗にいう「吹かさないように」)火を止めるが、煮込み式の場合はあえて何度も煮返して水分を飛ばし、茶葉の香りよりはミルクの濃厚さとスパイスの香りを重視して作る場合が多い。店頭では常時沸かしっぱなしになっていることが多い。
最後に濾過式の方法だが茶漉しやネル袋に茶葉を入れ、上から熱湯を注ぐ方法。このときにネル袋を抽出液に浸漬したり、茶葉を搾るなどの操作が加わる。上から熱湯を注ぐだけでは「色つきのお湯」程度にしかならず、逆に揉んだり絞ったりすれば非常に濃い紅茶となる。いずれにせよ良い方法とはいえない。多量の砂糖とミルクを添えて 味を誤魔化さねば飲みにくい代物である。
それと恭也が探していた『サモワール』。ロシアやトルコなどで紅茶を淹れる際に湯沸かし器として使用されていたものであり、伝統的なものとしても知られている。
「この茶葉ならストレートの方がいいな。ミルクならば煮込み式の方がよかったが、せっかくだから彼女にもこの茶葉の良さを理解してもらおう。」
そういうと湯が沸いたのを確認して恭也は茶葉を鍋の中に入れて蓋をして煮出していく。もう感覚的なもので恭也は鍋に張った水の量と茶葉の量、火加減からしてこのくらいだと思うところで蓋を開け放つ。芳醇な匂いを確認したら茶葉を取り除き、容器に移してカップと一緒にトレイに載せる。ここまでの動作を恭也は淀みもなく行い、一切の無駄がない。もちろんカップを温めるのを忘れない。そして、厨房から有里の待つところにトレイを持っていく。周囲に生徒はいないが、遠めで数人の生徒が談笑していたりする。有里の目の前にカップを置き、先程と同じように座り、恭也は自分で淹れたダージリンへと口をつける。
口に含んだ瞬間へ鼻腔へと芳醇な香りが一瞬に通り抜ける。その味に自分で満足しながらチラッと恭也は有里を覗き見る。
有里はどこか不思議そうなものを見るような表情で目の前のカップと恭也を行ったり来たりと忙しない。そんな様子は恭也からすればとても面白いものだ。しばらくそのまま見ていても飽きそうにないのだが、このままじゃ進まないので声を掛ける。
「……穂村さん。端から見て面白いのですが、一口飲んで落ち着いてください。」
有里はそう言われると恐る恐るという感じでカップを持ち、口をつけてダージリンを含み、ゆっくりと咀嚼していく。その瞬間、有里の表情が劇的に変わった。
「…………おいしい。」
有里を見て、恭也は嬉しそうな顔を浮かべる。実際に嬉しいのだ。恭也自身、誰かにこうして振舞うということ自体がそんなないことではないが、こうして言われると自分の腕が認められている気がするからだ。
「ありがとう、そう言って貰えると淹れたかいがありますね。」
「はぁ〜、不破先生って紅茶を淹れることができるんですね。」
「まぁ、少し勉強したことがありましてね。多少齧った程度なんですが。」
「……これで齧っただけなんですか?」
「まぁね。……ん?あれはもしや?」
恭也は有里の後ろから誰か近づいてくるのがわかった。どこか見たことがある。黒い髪を靡かせながらその紅い眼がとても印象的でゆったりとこちらに向かって歩いてくる。
あちらも恭也の存在に気付き、少しばかり足を速めパタパタと音を立てながらセント・テレジアの学生らしくない振る舞いで淑女とはとても言えない。しかし、その姿は傍目からとても可愛らしい。
「お兄様、お兄様ですよね?どうしてここにおられるのですか?」
恭也の目の前まで来て、上目遣いで眼を輝かせているその姿は有里の目からすれば尻尾を嬉しそうにブンブンと振る犬みたいに見えた。
それに対し、恭也はどこか頭が痛そうに手で頭を押さえながらなんとか声を発する。
「…………綾小路さん、分かりましたから少し離れていただきませんか?さすがに周囲の目がありますので。」
確かに周囲を見ると先程談笑していた生徒数人が珍しいものを見たようで驚いているのとなぜか有里からの視線が突き刺すように鋭利なものへと変わっていく。それに気付かず、綾小路と呼ばれた少女は恭也の言葉に納得しない様子を見せ、小さく頬を膨らませて抗議の表情を浮かべる。
「若菜とお呼びください。」
「いや、だから……」
「若菜とお呼びください、お兄様。」
「だからですね、綾小路さん……」
「……お兄様はもう若菜と呼んでくださらないのですか?」
綾小路と恭也に呼ばれた少女が恭也と親しそうに話していることを考えればおそらく知り合いであることは誰の目から見ても明らかだ。知り合いであることを考えれば、この少女が名前を呼ぶことはなんら不思議ではない。ただし、ここでは学院内であるのでなんらかの役職が就く。恭也には先生という名が、少女には生徒という名が。
それなのに少女はお兄様と名前で親しく呼ぶ、それに有里からすれば少女は品行方正で全学年でも知られている存在であの雪乃とも仲が良いと言われている。そんな人がなぜと有里は思うと同時に心の中から何かが湧き出てくるのを実感する。少女は今も尚、意固地に自分のことを名前で呼ぶことを強要している。もし、呼ばれたらと考えると有里は心にほうっと温かくなるような気がして言ってしまった。
「あ、あの、不破先生……わ、私も有、有里と呼んでいただけないでしょうか?」
有里は有里でどうしてそんな感情が出てしまったのか訳がわからずに混乱してしまって、未だに目の前の綾小路と呼ばれる少女は恭也へと抗議を続けている。そんな二人を見ながら、恭也は大きく息を吐いてポツリと呟いてから一先ず二人を落ち着かせることにした。
「如月さんはどうしているのだろうな……………」
その声は虚しく響き渡ってなにも変わりはしなかったが、どこか遠くでハリセンでなにかを引っ叩く心地よい音が聞こえた気がした。
あとがき
時雨「いくわよ、天・空・剣。」
ちょ、どこから出てきたその技。それは真っ二つに斬られ、ぎゃあああああ
時雨「ちっ、まだ錬度が甘いか。脳天からいくつもりっだのに、肩口からになっちゃたわ。」
あ、あぶなかった……思わず、脳が分かれるとこだった。
時雨「大丈夫よ、脳は右と左で別れているから斬られても大丈夫なのよ。」
ああ、そうだよね……んな訳あるか。
時雨「……引っかからなかったか。で、ようやくこのシリーズが久々に進んだ訳だけど?」
そうだな、ようやく初日の夜が終わったというとこかな?修史サイドは次回少しだけ補足を入れる予定。ゲーム本編をやった方はわかると思うのだが、やっていない人はどうしてこうなっているのかがわからないからどういった進展があったのか簡潔にでは書こうと思う。
時雨「そうね、それは必要なことね。今回の内容はゲーム本編ではない場面だから設定的にはオリジナルになる訳だけど?」
その辺りも考えてはいる。というか、今回はほぼ有里の内容になってしまった。もう少し新キャラである若菜さまを入れたかったなと思った。ただ……なんか、キャラ改変してないかな?これ?
時雨「してると思うわよ、これは。こんなにはっきりした態度とっていなかったじゃない。」
それにも次回でちゃんと理由を説明する。でないと、違和感ありまくりだ。
時雨「そう……じゃ、今回はいいわ。次のものに取り掛かりなさい。」
……最後になにもされないのって、逆に怖いな。……はっ、もしかして殴られる前提で考えているように誘導されている?ちょ、時雨?時雨さーん?どこー?
PS版の新キャラも登場〜。
美姫 「残念ながら、新キャラの方は分からないわね」
ああ。だから、ちょっと楽しみだったり。
今回は有里と恭也の対談かな。
美姫 「共に信頼し合ったみたいね」
だな。これで情報面に関してはリスティと連絡が付かない状態でも何とかなるかな?
美姫 「さて、どうなるかしらね」
次回も楽しみにしてます。
美姫 「待ってますね」
ではでは。