『マリあんぐるハート異聞 〜紅黄白黒の四薔薇さま〜』




私立マリとら学園………。

明治34年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のために作られたという、伝統ある学校だった。

しかし近年、高等部からは男子生徒の入学も認められ、より一層活気が溢れた。

最大の特徴はスール(姉妹・兄弟)制である。

上級生が下級生に姉妹の契りの儀式を行い、ロザリオを授受するといったシステムである。

姉(兄)になった先輩は妹(弟)の指導を行うのである。

これは、共学化と言う流れにあえて乗った上村佐織学園長の英断若しくは道断の果ての物語である。





マリあんぐるハート異聞 〜紅黄白黒の四薔薇さま〜


A spiral encounter



    多重騒ぎの月曜日  Episode B 「Reverse」



     1



「お待ちなさい」
 とある月曜日。
 マリア像に手早くお祈りして、さあ早く教室へと急いでいた福沢祐麒は背後から呼び止められた。
 マリア像へのお祈りがお座なりであったから、一瞬お怒りになられたマリア様に呼び止められたのかと思った。そんな錯覚を与えるほど、凛とした、よく通る声だった。
 ましてや祐麒は、今急いでいたのだ。あくまで優雅に、そして美しくというマリとら学園の校風に真っ向から反発するかのように慌しく走っていたが、慌てて立ち止まり、せめて少しでも印象をよくしようと「はい」と元気良く返事をしながら、身体全体で振り返る。
 そして振り返って相手の顔を真っ直ぐとらえたら、まずは何をおいても笑顔でごきげんよう――。
 しかし残念ながら、祐麒の口からも「ごきげんよう」が発せられる事はなかった。
「――――」
 その声の主を認識したとたん絶句してしまったから。
 辛うじて逃げ出さなかったのは、マリとら学園の生徒としてはしたない行為をしないように日頃から心がけていた成果、……というわけでは決してない。驚きの度合いが激しすぎて、行動が追いつかないまま瞬間冷却されてしまっただけなのだ。
「あの……。僕、いえ、私にご用でしょうか」
 どうにか自力で半生解凍し、祐麒は恐る恐る尋ねてみた。もちろん、自分が呼び止められた事は理解している。何故呼び止められているかもだ。それでもやっぱりご確認してしまったのは、相手が相手だったからだ。
「呼び止めたのは私で、その相手はあなた。間違いないわ」
 間違いないわ、と言われても。いいえお間違いのようですよ、と答えて逃げ出してしまいたい心境だった。学風に逆らって駆け抜けようとしていた以上、覚悟してしかるべき事態であった。しかしながら辺りに人気は無かったし、何よりこのような人に見付かるとは思ってもいなかった。
 そんな祐麒の考えなど知る由もないその人は、うっすらと微笑を浮かべ、真っ直ぐ祐麒に向かって近づいてきた。
 学年が違うので、今のように二人っきりであったことは無い。でもその声は、新入生歓迎会で聞いた歌声さながらにお美しい。
 背中まで伸ばされたストレートヘアは、良く手入れされた緑髪。僧侶や尼さんをさして言う忌詞でもある形容詞が、マイナスのイメージなど全く感じさせずに自然と思い浮かぶぐらいに、綺麗に手入れされた御髪だった。
「呼び止められた理由は解るわね」
 彼女は、涼しげな眦をそっと強めて祐麒に話し掛けた。
(怖い!!)
 別に声を荒げた訳でも眼が三角になったわけでも無い。それでも祐麒は思わず目を閉じて固く首をすくめた。
「理由は聞かないし怒っている訳でも無いわ。でも、学内を走るのは戴けないわ」
「えっ?」
 目を開けると、そこには依然として美しいお顔があった。何と彼女は、エスパーでもあったのか!?
「もう予鈴が鳴ったものね。急いでいるのは解るけど、せめて早歩きになさい。マリア様が見ていらっしゃるわよ」
 微笑みをお浮べになられならがそう言って、その人は「ごきげんよう」を残して先に校舎に向かって、言葉通りに少し足早やに歩いていかれた。
(…………助かった)
 後に残された祐麒は、取り敢えずは見逃して頂けたらしいという状況がわかってくるに従って、徐々に落ち着きを取り戻していた。
 あの人は、二年藤組の蟹名静さま。ちなみに出席番号は十番。通称『 黒薔薇のつぼみ《ロサ・アトゥルム・アン・ブゥトン》』。
 共学化して僅か三年目と言うこのマリとら学園において、全体数に占める割合の少ない、つまりは肩身の狭い思いをしている男子学生の利益代表とでも言うべき黒薔薇さまの妹にして合唱部、いや本学園の歌姫さま。彼女に懸想する野郎どもの数は決して少なくない―――などと思っていると、不意に鉦の音が響いてきた。本鈴だ。
(そんな……)
 落ち着きかけていた精神が崩壊寸前である。
(そんなのって、ありかよ)
 祐麒はしばらく呆然と立ちつくしていた。
 走っていたのを見逃して頂けて、その優しさに感動すら覚えていたと言うのに。こんな仕打ちなんて、ひどすぎる。
 マリア様のバカヤロー。
 悔し紛れに遠く眺めたマリア像のお顔は、木立に隠れて見る事は叶わないが、きっと静さまと同じ顔をされている筈だ。不届き者にちょっとした罰を与えられた喜びに微笑を浮べて、小さな緑のお庭の中にひっそりと立っていらっしゃるのだろう。





     2



「珍しいじゃないか、遅刻なんて」
 隣の席の小林正念《こばやしまさのり》が、面白いものを見つけてうずうずして仕様が無いといった笑みを浮べて話し掛けてきた。
「うるさいな」
「おうおう、ご挨拶だな………。お前がお姉さんと一緒に登校して来ないのは何時もの事だが、遅刻したのなんて初めてじゃないか?」
 それはその通りだ。
 と言うか、この学園に於いて遅刻してくる学生というのは殆んどいない。
 朝のお祈りが始まって暫くしてからやってきた祐麒をやんわりと注意した一年菊組のシスターにした所で、事態の珍しさに目を丸くしていたぐらいだった。
「色々あったんだよ、色々と」
 追求好きの小林の所為で、その色々を思い出してしまった。
 朝起きて家を出るまでは問題無かった。年子の姉の祐巳より一足先に家を出て、いざ校門に着いた所で気がついたのだ。昨夜遅くまで掛かって仕上げた宿題を、忘れた。
 すぐさまバスに乗り込んで、送り出されたばかりの家に駆け戻り、机の上に置き去りにされていたノートを持って再度家を出た所ではギリギリ間に合う時間帯だった。
 然れど然れど、日々欠かした事の無いマリア様への礼拝をお座なりにしたばっかりに罰が下った。
 黒薔薇のつぼみこと蟹名静さまに走っている所を目撃され、マリア様の代わりに罰を与えて下さったのだ。
 小学校からの年間目標である無遅刻無欠席は、十年目にして破られてしまった。
 それもこれも、学園内を走り抜けようとした自分が悪いのだから自業自得。静さまを恨むのは筋違いというものだが、ちゃっかりしたもので静さまは遅刻する事なく教室へ着かれただろう事を思うと愚痴の一つも言いたくなる。
 と言う訳で、細部を省いて小林に説明してやった。
「そりゃ、宿題を忘れたお前が悪い」
「わかっているよ。だからこれは愚痴だ。黙って聞いてれば良いんだよ」
 愚痴でも言わなきゃ、やってられない。
「それにしても、黒薔薇のつぼみにそんなお茶目な一面があったとは驚きだな。………そう言えば聞いたか、藤堂志摩子嬢についての話」
 小林はこの調子の良さからか情報通で、様々な与太話を仕込んで来ては洩らしてくれる。お陰で山百合会を始めとした学園内の噂は、マリとら瓦版を合わせればほぼ網羅してしまうと言う潤沢振りだ。別に嬉しくは無いのだが。
「2年生をすっ飛ばして白薔薇のつぼみになったと言う話か?」
「ノンノンノン。そんなありふれた話じゃない。実は彼女、紅薔薇のつぼみからもスールの申し込みが先にあったんだが、それを蹴って白場薔薇さまの申し出を受けたんだと」
「………それって問題無いのか?」
 同じ山百合会の幹部同士による一年生の取り合い。遺恨が残ったら気まずくはならないのだろうか?
「問題無い。確かに部活なんかだともめる事もあるようだが、結局は当人同士の気持ち次第だからな」
 そうだったのか。部活をやっていない祐麒には初耳だが、確かに限られた人数の部活内でスールを作ろうとしたら自ずと取り合いが生じる事は想像に難くない。
「それより俺は、白薔薇さまや紅薔薇のつぼみにまだ妹がいなかったという事実の方がお驚きだよ」
「何言ってるんだよ。お前が今朝お世話になった黒薔薇のつぼみにだってプティ・スールはいないぞ。黄薔薇ファミリーのように三年二年一年と全て揃っている方が少ないんだよ」
 祐麒が正直な感想を述べると、小林は哀れむような目を向けてそう告げた。
 言われてみれば、つぼみの妹については藤堂志摩子嬢と島津由乃嬢についてしか聞いた事はない。そんなもんかと思いながら、何時もの平穏そのものの日常から外れていきそうな予感を確かに感じていた。





     3



「もう帰るのか、ユキチ?」
 掃除が終わって朝の予感は気のせいかと安心していた祐麒に話し掛けてきたのは、先日の体育祭で大活躍していた一年菊組が誇る筋肉マンこと高田鉄《たかだまがね》。場の雰囲気など目に見えないものを掴むのは苦手だが、目に見えるものを取り扱う運動系にはめっぽう強い、それでいて気の良い奴である。
「あぁ、別にやる事も無いしな。高田は部活か?」
「勿論。冬になる前にあと2kgは増やしたいからな」
 そう言って高田は自慢の大胸筋をプルプルさせる。自慢したい気持ちは解るが、見たくは無いから隠せっての。
「そう言えば、ユキチのお姉さんを音楽室で見たぞ。鞄持ってたから帰るのかな?」
 一年菊組の野郎どもは皆祐巳の事を知っている。前に英和辞書を忘れて借りに来た事があった為だ。こういう時、姉弟が同じ学年だと非常に助かる。
「そっか、ありがと。また明日な」
「おう」
 そう言って高田と別れ、昇降口へと向けていた足を高田がやってきた音楽室の方へと向ける。今日はちょっと遠出して本でも買いに行こうと思うから、その事を祐巳に伝言する為だ。
 流石にこの年になると一緒に登下校するのはなんだか気恥ずかしくて、この一年で祐巳と一緒に歩いた記憶はほとんど無い。とは言え辞書を貸し借りするように仲が悪い訳ではなく、小林などに言わせると「お前んところ、仲いいな」である。


 音楽室からは、綺麗な歌声が聞こえて来た。
 祐巳を探して音楽室まで来たものの、考えてみればもうすぐ部活の始まる時間である。姉弟揃って部活動をしていない福沢姉妹にしてみれば下校の時間であり、祐巳が音楽室にいる筈も無い。
 そう解っていながら音楽室まで来てしまったのは、音楽室から響いていた歌声に惹かれた為だった。聞き覚えのある声による聞き覚えの無いメロディー。叙情的で旋律的な独唱である事からアリアらしい事は解るものの、題名が解るほど音楽に詳しくは無い。
 それでも、気がついた時には音楽室の扉に背中を預け、聞き惚れてしまっていた。
「ごきげんよう」
 目を閉じて聴き入っていた為か、最初誰が誰に挨拶しているのか解らなかった。
「ご、ごきげんよう、黒薔薇のつぼみ」
「えぇ、ごきげんよう。今朝は遅れなかった?」
 慌てて挨拶した祐麒に、静さまは悪戯っぽく微笑みかけた。
「………遅れました。入学してから、いえ、就学してから初めての遅刻ですよ」
 憮然として責めるような口調になったのは、その微笑みに当てられたからではない。顔を覚えられていた事に対する驚きを隠そうとした為だ。
「あらあら、それは悪い事をしたわね。ごめんなさい。そんなつもりはあったけど、まさか本当に遅刻するとは思わなかったのよ」
「いえ、学内で走った私が悪いのですから」
 ………何とか聞き流したが、やはりアレは故意だったようだ。小林が言うように、確かにお茶目な人かもしれない。
「いや、やはり悪いのは静だろう。学内を走る事が遅刻に値するほど悪いとは思えないからな」
 その声は、誰もいないと思った室内から聞こえてきた。
「お兄さま………」
「なんだ静? 自分は悪くないとでも言うつもりかい」
「いえ、そうは申しません。ただ、お兄さまがいきなり話し掛けるものですから彼が萎縮してしまいましたわ」
 静さまのお兄さま。それは整った顔立ちと凛とした雰囲気を持った、女生徒全般から絶大な支持を受ける唯一の男の薔薇さま。マリとら学園男子学生第一期生にして初代黒薔薇さま《ロサ・アトゥルム》こと高町恭也さまだ。
「ご、ごきげんよう」
 さっきも同じように挨拶したなと思いながら、祐麒は黒薔薇さまに対して挨拶する。既に頭はパニックだ。
「あぁ、ごきげんよう。今朝は静の悪戯の所為で迷惑を掛けたようだね。不出来な妹に代わって詫びさせて貰うよ、済まなかったね」
 そう言って黒薔薇さまは、丁度45度頭を下げた。黒薔薇さまのお辞儀は最敬礼の見本のようなピンと筋の通った綺麗な仕草で、その横で僅かに頬を膨らませている静さまの姿との相乗効果で祐麒は必要以上に慌ててしまった。
「そ、そんな、頭を上げて下さい黒薔薇さま。黒薔薇さまに頭を下げて貰うほどの事ではありませんし、そもそも先程も行ったように私が悪い訳ですし、シスターに怒られもしませんでしたし、と言うか黒薔薇さまは何時からここにと言うか、あの、その………」
 もはや言っている事は支離滅裂で、祐麒にも何が言いたいのだかさっぱり解らない。それでも言いたい事は何とか伝わったのか、黒薔薇さまは頭を上げると女生徒なら一発で誑し込めるような笑顔を浮かべ、落ち着かせるように祐麒の肩を軽く叩いてくれた。
「今日はこれから山百合会で会議があるから、その前に少し静の歌の仕上がりを聴きに来ていたんだよ。と言う訳で最初からここで聞いていた訳だが、驚かせる気は無かったとは言え結果として驚かせてしまったようで申し訳無い」
 そう言って微笑みながら言葉を紡ぐ黒薔薇さまはたった二つしか離れていないとは思えないぐらいに大人で、その気は無いのに見入ってしないそうなぐらいに格好良かった。
「お兄さまったら、今日は随分とご機嫌なのですね。何か良い事でも御座いましたの?」
 うろたえる祐麒の姿を見てからと言うもの微笑みっぱなしの静さまは、そう黒薔薇さまに話し掛ける。
「なに、お前にもこんなに仲の良い後輩がいると知って嬉しくてな。俺には紹介してくれなかったからよほど大切なのだろう?」
「あら嫌ですわ、お兄さま。私も今朝が初対面ですのよ。ねえ、えっと………」
「あ、一年菊組三十四番。福沢祐麒です」
 名前が思いつかなくて言葉を探しているであろう静さまの様子を見て、祐麒は思わず差し出がましくも自己紹介してしまった。しかしお二人はそんな祐麒の内心を顧みず新たな質問を重ねてきた。
「なるほど、フクザワユウキさん。漢字でどう書くの?」
 これは静さま。
「福沢諭吉の福沢、しめすへんに右を書いて祐、それに麒麟の麒です」
「親御さんの期待が窺える、良い名前だ」
 黒薔薇さまは華やかに微笑んだ。
「どうだ静。今朝のお詫びと先程俺が驚かしたお詫びを兼ねて、薔薇の館に招待すると言うのは?」
「それは良いお考えですわ。お兄さまのお入れになられた紅茶なら、きっと祐麒さんも気に入って下さいますわ。祐麒さんはこの後何か用事はおありですか?」
「えっ、いや、べつにって、えっ?!」
「そうか、ならば善は急げだ」
「はい、お兄さま」
「えっ、えっ?!」
 肩を叩いていた筈の黒薔薇さまの手は気がつくと祐麒の身体を後ろから薔薇の館へと押し進ませ、手に持った鞄は静さまに掴まれて人質ならぬ物質《ものじち》となっていた。



今度は祐麒くんの登場〜。
美姫 「こうして彼も薔薇の館へと行く事に」
果たして、その先に待っているものとは。
美姫 「いやーん、非常に楽しみ〜」
うんうん。それじゃあ、また次回で。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



頂きものの部屋へ戻る

SSのトップへ